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黒塚古墳展示館3

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黒塚古墳の三角縁神獣鏡
三角縁神獣鏡は日本各地から出土し、その数は500以上とも550以上ともいわれている。古墳時代の銅鏡では最も数の多い鏡式で、その大半は近畿地方から出土している。出土した古墳の築造時期は、前期初頭が圧倒的に多く、次に前期前葉、前期中葉、前期後葉と、ほとんどが古墳時代前期とされている。黒塚古墳からは三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面の合計34面の銅鏡が出土した。三角縁神獣鏡の出土数は日本最多を誇る。初期ヤマト王権から各地の王へ下賜されたものと考えられるため、この柳本古墳群や纒向古墳群、大和古墳群周辺が、初期ヤマト王権の中心地とされるわけである。

黒塚古墳と椿井大塚山古墳
黒塚古墳から大量の三角縁神獣鏡が発見されるより40数年前の1953年に、京都府木津川市の椿井大塚山古墳から三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面、内行花文鏡2面、方格規矩四神鏡1面が出土している。黒塚古墳との比較から同笵鏡(同じ鋳型あるいは原型から作られた鏡)が多数存在し、全国の広い範囲からも出土することが判明してきた。また、三角縁神獣鏡が中国から1枚も出土せず、「景初4年」という実在しない年号の紀年銘鏡が出土したこと、黒塚古墳の出土状況から粗雑に扱われていること、成分分析によって銅の産地が神尾銅山と推定されること、銘文が稚拙であるなどの理由で、大量の三角縁神獣鏡は国産であるという意見が多くなっている。

15号鏡には、玄武や孔雀、鳥、魚、蟹など
三角縁神獣鏡の主文様に配置された霊獣(虎・龍など)の他にも馴染み深い動物たちが表現されている。文様が鮮明な15号鏡では、玄武や孔雀、大きく翼を広げた鳥、魚、蟹などが見られる。17号鏡では、主文様の獣の間に、魚をくわえた水鳥や、首を交差させた2羽の鳥、亀、蛙、魚など、水中世界を思わせる表現を見ることができる。7号鏡では、象や駱駝など当時の日本列島では見られない動物たちが表現されている。

画文帯神獣鏡
画文帯神獣鏡は、棺内の頭部付近に文様を南に向けて立った状態で1面のみ出土した直径13.5cmの小さな鏡である。33面の三角縁神獣鏡がいずれも棺外にあったのと異なる取り扱いがされたことが窺える。この鏡式は中国の後漢末から三国時代にかけて盛んに製作され、日本列島にもたらされた。三人の神仙のうち、両手の裾をたくし上げて膝に琴を置いているのが、琴の名手である伯牙とみられる。左右の神仙は東王父西王母であろう。文様の外側には「吾作明竟自有紀□□公宜子」の銘文がある。

16号鏡と18号鏡は「同笵鏡」か「同型鏡」
 
三角縁神獣鏡には全く同じ文様の鏡が複数存在する。一つの鋳型から繰り返し作った鏡を「同笵鏡」と呼ぶ。繰り返し作るうちに鋳型が劣化して補修が難しくなる。これに対し、一つの原型から複数の鋳型を作る方法もあり、そうして作られた鏡を「同型鏡」と呼ぶ。

同笵鏡もしくは同型鏡
黒塚古墳では、2・2733号鏡、1125号鏡、1231号鏡、1326号鏡、1618号鏡、2032号鏡、2930号鏡の7種15面が同笵鏡もしくは同型鏡である。さらに、兄弟関係にある鏡は全国各地の古墳からも多数出土している。

三角縁神獣鏡の文様の主人公は、神像と獣像
三角縁神獣鏡の文様の主人公は、神像と獣像である。神像は頭を正面に向けた座像で、両手を襟の前で合わせる。三連の山形の冠は東王父を表し、両端から内側に蕨のように巻き込む冠は西王母を表す。肩から上方には雲気が立ち上がる。獣像は顔を正面に向け、胴体は横を向く。走獣と盤龍に区分され、走獣は口を開いて疾駆する姿を表し、しばしば口に「巨」と呼ばれる器具をくわえている。

様々な文様の違う鏡
ここまで、1号鏡の三角縁銘帯六神四獣鏡から33号鏡の三角縁獣帯四神四獣鏡まで、8号鏡の三角縁神人龍虎画像鏡やら、17号鏡の三角縁複波文帯盤龍鏡、24号鏡の三角縁唐草文帯四神四獣鏡など様々な文様の違う鏡が混在していて興味深い。しかし、前にも述べたが、これらの鏡全てはよくできたレプリカである。

黒塚古墳から出土した本物の三角縁神獣鏡
本物の三角縁神獣鏡は、この後訪れる橿原考古学研究所附属博物館に展示されている。これが黒塚古墳の石室から出土した7号鏡、8号鏡、9号鏡と画文帯神獣鏡である。その上には副葬品のU字形鉄製品やY字形鉄製品などが展示されている。

黒塚古墳から出土した副葬品
他にも黒塚古墳から出土した副葬品の鉄製甲冑片や鉄鏃、鉄鎌などが展示されている。

その後の黒塚古墳
黒塚古墳の所在する柳本は、中世には「楊本庄」と呼ばれる興福寺の荘園だった。荘官だった楊本氏は15世紀後半から16世紀前半にかけて十市氏と抗争を繰り返していたが、楊本氏の没落後は十市氏の支配地となった。元亀2年(1571)には柳本に付城を造らせたとされ、十市氏が黒塚古墳を城郭として利用していた可能性が高い。天正3年(1575)には松永久秀の手に移り、一族の松永金吾が入城した。天正5年(1577)、織田信長による松永攻めが始まると、松永金吾も「クロツカ」で自害したとされる。元和元年(1615)には織田長益の五男・尚長が初代の柳本藩主となり、明治4年(1871)の廃藩置県まで250年以上に渡り柳本を治めた。

大和古墳群
黒塚古墳が含まれる柳本古墳群の南に纒向古墳群があり、北には大和古墳群があって3つの古墳群を合わせて「オオヤマト古墳集団」とも呼ばれる。大和古墳群と呼ぶのは、古墳群の西辺に大和神社が鎮座することによる。群中には前方後円墳12基、前方後方墳5基、円墳7基が知られる。
西殿塚古墳(長さ約230m.前方後円墳)は、大和古墳群最大の古墳で、「手白香皇女衾田陵」に治定されている。調査では現在の陵墓の範囲外にも本来の墳丘が広がっているのが判明している。
東殿塚古墳(長さ約139m.前方後円墳)は、西殿塚古墳のすぐ東側に寄り添うように築かれている。前方部西側の調査では、墳丘裾に大小の埴輪を三角形に並べた埴輪配列による祭祀の場が見つかった。埴輪の一つには、葬送の船を描いたものと見られる画があった。
中山大塚古墳(長さ約130m.前方後円墳)の後円部の竪穴式石室は長さ7.5mで、墳頂からは円筒埴輪とともに円筒埴輪の祖型となる特殊器台も見つかった。下池山古墳(長さ約125m.前方後方墳)の後方部に竪穴式石室があり、コウヤマキの大木をくり抜いた割竹形木棺が安置されていた。背室内から腕輪形石製品・玉類・鉄製品が出土したほか、北側で見つかった別の小石室から大型の内行花文鏡が出土した。
波多子塚古墳(長さ約140m.前方後方墳)は、前方後方墳としては杣之内古墳群の西山古墳に次いで国内第2位の規模を誇る。ヒエ塚古墳(長さ約127m.前方後円墳は、大和古墳群の最北端に位置し、中山大塚古墳や箸墓古墳の墳丘形態の類似も指摘され、初期前方後円墳の一つとして知られる。ノムギ古墳(長さ約63m.前方後円墳)は、ヒエ塚古墳のすぐ西側に位置し、大和古墳群の中では最も初期の古墳である。

東大寺山古墳群と杣之内古墳群

天理市櫟本町東方の丘陵は中世に東大寺の所領だったことから、通称「東大寺山」と呼ばれている。丘陵の西方には東大寺山古墳・赤土山古墳・和邇下神社古墳など古墳時代前期の大型前方後円墳が立地し、東方には小円墳が多数分布している。東大寺山古墳(長さ130m.前方後円墳)の埋葬施設は粘土槨で、著名な「中平」銘鉄刀の他にも玉類・石製品・鉄製武器類などの副葬品が見つかっている。赤土山古墳(長さ106.5m.前方後円墳)では後円部墳頂に並べられていた円筒埴輪列がほぼ完全な状態で出土し、国の指定史跡として一般公開されている。

天理市の中心地には布留遺跡が広がり、周辺には杣之内古墳群や石上・豊田古墳群などが広がっている。杣之内古墳群で最大の西山古墳(長さ約185m.前方後方墳)は、日本列島最大の前方後方墳として知られる。3段築成の墳丘は最下段が前方後方形、上段が前方後円形という特異な形状である。古墳の周辺から円筒埴輪が出土している。

布留遺跡は天理市中心市街地の下に広がる大規模遺跡。特に古墳時代中期〜後期(5〜6世紀)には儀礼・政治・生産といった様々な機能を備えた奈良盆地有数の集落へと成長した。その頃には杣之内古墳群周辺で西乗鞍古墳などの大型前方後円墳が相次いで築かれた。古代の有力氏族「物部氏」の墓域と想定されている。

 

 

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