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Channel: hantubojinusi’s diary
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黒塚古墳展示館2

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黒塚古墳展示館、黒塚古墳の模型
黒塚古墳展示館内には、黒塚古墳の模型が展示されている。縮尺1:150の模型で、芝生に覆われたような姿で、スッキリしている。古墳は宮内庁の管理外なので、発掘調査後、埋め戻されて、今では公園として整備され、自由に墳丘を歩くことができる。後円部中央には石室のあった場所の上に模型と説明板があるようだ。

銅鏡の複製品
この金ピカの銅鏡は、本物と同じように作られた複製品であり、自由に触って観察できる。

魏志倭人伝倭国邪馬台国
ここで魏志倭人伝倭国邪馬台国について、少しまとめてみよう。魏志倭人伝とは、中国の正史である『三国志』中の「魏書」第30巻「烏丸鮮卑倭人条」の略称で、「倭人伝」という列伝ではない。西晋陳寿により280年(呉の滅亡)から297年(陳寿の没年)の間に書かれた。当時の倭に、女王の都する邪馬台国を中心とした国が存在し、女王に属さない国も存在していたこと。当時、日本列島に住んでいた民族・住民の倭人の習俗や地理などが書かれている。景初2年(238年)に邪馬台国女王卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着したとあるが、この遣使の年は景初3年(239年)だという梁書倭国伝などもあって、論争の種になっている。邪馬台国の国名表記も、古田武彦が指摘するように、魏志倭人伝でも梁書倭国伝でも原文は「邪馬壹国」となっていて、邪馬臺国(後漢書)と表記されるようになったのは5世紀以降である。また、魏志倭人伝には、倭人帯方郡(今のソウル辺り)を介して朝貢したとある。さらに、帯方郡の南に韓があり、韓の南は倭と接するという。韓は馬韓辰韓弁韓三韓に区分され、東部の辰韓の南に弁韓があり、西部の馬韓の南と、弁韓の南は倭と接する。女王国以北には、狗邪韓国、対馬国一支国、末国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国があり、邪馬台国の遠くに斯馬国、伊邪国など多数の国があるという。つまり、当時の倭国朝鮮半島南部の狗邪韓国と北九州にまたがっている、と考えられるので、魏志倭人伝に従えば、邪馬台国は機内説より北九州説の方が説得力がある。ちなみに、古田武彦は「女王国の表座敷が博多湾岸、奥座敷朝倉郡、離座敷が八女郡」として邪馬台国は福岡県にあったというが、石渡信一郎は邪馬台国の都は吉野ヶ里遺跡であるという。私は石渡説を採りたい。

紀年銘鏡
銅鏡には、銘文に中国の年号を示すものがあり、「紀年銘鏡」と呼ぶ。日本で見つかった紀年銘鏡のうち、最古の年号は青龍3年(235)銘鏡である。赤烏7年(244)銘鏡までに10面以上の鏡が出土している。魏志倭人伝にいう「銅鏡百枚」のうちにこれらの鏡が含まれるのではないかと期待する人もいるが、建武5年(498)の出土地不明の1枚を除いた全ての出土地が、邪馬台国候補地である北九州でも奈良県でもないことからすると、含まれていないと考えざるを得ない。特に、実在しないはずの景初4年(240)銘の2面(斜縁盤龍鏡)が見つかっているので、紀年銘鏡の多くが国内製造とも疑われている。

東大寺山古墳から出土した「中平」銘の環頭大刀
最古の紀年銘鏡は青龍3年(235)銘鏡であるが、天理市東大寺山古墳から出土した中国製の環頭大刀(110cm)には、刀背に金で「中平」という中国後漢霊帝の年号が象嵌されている。中平年間(184189)に製作されたとみられ、日本で出土した考古資料に記された紀年銘では最古のものである。後漢書によると、「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、こもごも相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名を卑弥呼という」。梁書によると、「漢の霊帝光和中、倭国乱る。相攻伐すること歴年。すなわち共に一女子を立つ。卑弥呼、王為り」。霊帝の年号は、建寧〜中平(168189)、光和(178184)なので、卑弥呼の時代より半世紀前のことである。古代では中国の皇帝が代替わりすると、日本から朝貢し、見返りに鏡や剣などを賜るのが通例だから、この大刀も皇帝の代替わりに倭国の王が賜ったものが伝来したものと思われる。

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