ホケノ山古墳の周囲には纏向遺跡が広がる。纏向遺跡は東西約2km、南北約1.5kmの古墳時代前期の大きな集落遺跡であり、初期ヤマト政権発祥の地と考えられている。纏向遺跡の中には箸墓古墳を代表として、纏向型前方後円墳と呼ばれる石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳の6基の古式の前方後円墳があり、前方後円墳で構成された日本最古の古墳群といえる。しかし、その築造時期は3世紀に遡ると説明されているが、石渡信一郎によれば4世紀後半の370年代から390年代であるとわかったというので、およそ100年もの誤差がある。
石塚古墳・勝山古墳の約500m東に纏向遺跡の中心、辻土坑がありその出土品がこの後訪れる橿原考古学研究所附属博物館に展示されていた。辻土坑4出土の「マツリの道具」は、船形木製品、紡織具、木製高杯、土製の高杯・小形器台・小形丸底壺などで、古墳時代前期3世紀のものと説明されている。
纏向石塚古墳は、墳丘長約96m、後円部径約64m、後円部の主丘部の東西59m、南北45m、前方部長約32m、幅約34m。墳丘に葺石や埴輪はなく、小さな前方部が付くのが特徴であり、後円部には高さ約4mの盛り土があり、3段築成だが埋葬施設は確認されなかった。周濠もかなり大きいのがわかる。
纏向石塚古墳は後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纏向型前方後円墳」の典型的な例とされている。箸墓古墳の定型化した前方後円墳が出現する以前の3世紀前半〜中頃の築造と考えられると説明があるが、石渡信一郎は、周濠や導水溝から出土した土器(庄内0式期、庄内1式期、庄内3式期)のうち最後の土器から380年ごろと推定している。周濠からは古墳時代初頭の土器のほか、孤紋円盤(山陽地方で盛んに出土される祭祀用遺物)、朱塗りの鶏形木製品、土師器(纏向1式期)などが出土している。孤紋円盤からは吉備地方との関係が推測される。
纏向石塚古墳のすぐ北西に纏向勝山古墳がある。全長約115m、後円部径約70m、前方部長約45m、くびれ部幅約26m、後円部の高さ約7m、周濠幅約25m。周濠の周りには大きな池が巡らされ、農業用水のため池として利用されているようだ。近年の調査で、墳形が前方部が短い纏向型ではなく、周濠が墳丘全体を巡る馬蹄型と判明した。
纏向石塚古墳と同様に定型化した前方後円墳が出現する以前に築造されたと考えられている。埋葬施設の内容は不明だが、周濠部からは木製の刀剣把手、団扇、槽等の祭祀具、U字形木製品、布留0式土師器、庄内2式土器が出土している。被葬者は不明。築造時期は、出土土器から纏向石塚古墳とほぼ同じく3世紀前期〜後期の築造と考えられると説明があるが、石渡信一郎は、周濠や導水溝から出土した土器(庄内0式期、布留1式期)から380年前後と推定している。
纏向勝山古墳のすぐ南西に纏向矢塚古墳がある。全長約96m、後円部径約64m(東西約64m、南北約56m)、前方部長約32m(現在約約28m)、後円部の高さ約5m、周濠幅約17-23m。周濠深さ約0.6m。周濠は後円部のみで、地形に合わせて前方部に向かう途中で途切れ、後円部南側では掘削直後にブロック状の盛り土が築かれていたという。写真は、北東方面から見た後円部あたり。周濠跡は道路の東側(左手)を巡っていた。
纏向矢塚古墳は後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纏向型前方後円墳」の一例とされ、纏向石塚古墳と同様に定型化した前方後円墳が出現する以前に築造されたと考えられている。埋葬施設は未調査のため不明だが、墳頭部に約50cmの板石が露出しているので竪穴式石室または箱式石棺が考えられている。葺石、埴輪の出土はないが、須恵器(纏向Ⅲ式期)土器、瓦器が出土している。被葬者は不明。築造時期は、出土土器から纏向石塚古墳とほぼ同じく3世紀中頃の築造と考えられると説明があるが、石渡信一郎は、墳丘や周濠部から出土した土器(庄内3式)から370年代と推定している。
写真は南東方面から見た纏向矢塚古墳の南側面。左手が前方部である。この矢塚古墳の南約300mに東田(ひがいだ)大塚古墳がある。従来は纏向型前方後円墳と見られていたが、2008年の調査で前方部が長い墳丘で纏向型(後円部:前方部=2:1)ではないことが判明した。全長約120m、後円部径約68m、前方部長約50m、後円部の高さ約9m、周濠幅約21m、周濠深さ1.3m。埋葬施設が周濠外堤部に1基見つかっている。墳丘周辺から安山岩の板材が採集されているため、竪穴式石室が存在する可能性があるという。纏向遺跡では箸墓古墳に次ぐ墳丘規模である。葺石、埴輪はなく、出土遺物は、甕棺(周濠外堤部より東海系壺片で蓋をした西部瀬戸内系土器棺埋納)、土師器(布留0式)、木製品。土師器(布留0式)、木製品。築造時期は古墳時代初頭(3世紀後半)としているが、ここも石渡にすれば布留0式なので、箸墓古墳とほぼ同時期の380-390年代と推定されるだろう。