ホケノ山古墳は、のちの定型化した前方後円墳の成立につながる要素を内包した初源的な古墳であり、後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纏向型前方後円墳」と呼ばれる古墳の中で、唯一全体像が判明している貴重な古墳である。
前回、石渡信一郎が土器の型式時期や古墳の築造時期、さらには藤原不比等により隠された倭の五王や初期天皇の在位年代などを突き止めるための努力を述べたが、さらに特筆したいのは、『日本書紀』の編纂段階と藤原不比等による記事の改編の解明である。石渡信一郎は『日本書紀』の編纂段階を、Ⅰ期(691〜704)、Ⅱ期(705〜711)、Ⅲ期(712〜720)に大別する。681年(天武10)天武天皇は帝紀・旧辞の撰修を命じたが、686年に死去した。690年に律令国家「日本国」が誕生し、691年(持統5)持統天皇が大三輪氏など18氏の纂記を上進させた。これが『日本書紀』の編纂の始まりとする。この時期にできたものを「原日本書紀」とする。その初代天皇は孝霊天皇で在位年数は120年だった。Ⅱ期に藤原不比等は神武から6人の天皇を追加し、景行・成務・仲哀天皇と神功皇后を創作し、仁徳・雄略・武烈の3人の仁徳王朝に履中から仁賢の7人の天皇を加え、さらに安閑・宣化の2人の天皇を入れた。Ⅲ期には神武天皇の死亡年を神武76年とし死亡年齢を127歳として孝霊天皇とほぼ同じにした。神武は基本的に後期百済系倭国の初代大王応神(昆支・武)の分身であり、不比等が神武の死亡年齢を127歳にすることにより、応神が67歳で死亡した事実を非公式に記録していると石渡は考えている。不比等は前期百済系倭国の初代崇神天皇の系譜を隠すために倭の五王の系譜を隠し、後期百済系倭国の初代応神天皇(昆支・武)の系譜を隠すために神功皇后や数人の架空の天皇を入れ込んだりしているが、天皇の系譜に百済系王族が深く関与していることを隠したいためと思われる。考古学会でも認めている実在の最初の天皇とされる初代崇神天皇の実際の在位年代について、石渡は元年が342年、死亡年が379年と『日本書紀』が非公式に記録しているが、藤原不比等はどちらも1年繰り上げて、341〜378年にしたという。石渡は箸墓古墳の被葬者を崇神天皇とし、古墳の築造年を393年と推定している。箸墓古墳の後円部には、吉備首長霊継承儀礼に使われた特殊器台・特殊壺、最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪などが立てられた。『日本書紀』垂仁紀32年条には、人・馬などの埴輪を陵墓に立てることを決めたとある。家形埴輪・器財埴輪(きぬがさ形埴輪・盾形埴輪など)の成立は5世紀前半、動物埴輪・人物埴輪などの成立は5世紀後半と見られるが、この記事は、崇神の息子・垂仁の時代に円筒埴輪が立てられたことを記録している。箸墓古墳の周濠跡の植物堆積層(厚さ約25cm)からは多量の布留1式(410〜437年)の土器とともに、長期間使用された木製輪鎧が出土している。鮮卑の後燕(384〜407)を滅ぼし、北燕を建国した馮跋の弟の馮素弗(ひょうそふつ)は415年に死んだが、その墓から発見された金銅板張りの木製鎧は、箸墓古墳出土の木製鎧に近いと山口博(トンボ塾講座)はいう。それゆえ、この木製鎧も垂仁の次の倭国王讃(イニシキイリヒコ)の時代の初期の410〜420年代に投棄されたとみられる、と石渡はいう。箸墓古墳以前の纏向古墳群の矢塚・ホケノ山・勝山古墳の築造時期は、土器が庄内3式なので370年代としている。