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Channel: hantubojinusi’s diary
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ホケノ山古墳

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國津神社
箸墓古墳の東にあるホケノ山古墳に向かうとすぐに左手に村社・國津神社があった。国津神社は、古来より「地主の森」といって、天照大神御子神五柱を祭神としている。この男神五柱、つまり、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 (まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)天穂日命(あめのほひのみこと)天津彦根命(あまつひこねのみこと)活津彦根(いくつひこねのみこと)熊野樟日命(くまぬくすびのみこと)は、「記紀」神話によると、素戔嗚尊天照大神と天の安河を中に挟んで誓約をしたとき、
天照大神の玉を物実として成り出た神という。また『日本書紀崇神天皇六年の条に「天照大神・倭大国魂二神を、天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神の勢いを畏りてともに住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る」とあり、ここ箸中の東、三輪山麓の檜原の地は天照大神の伊勢鎮座以前の宮居のあった笠縫邑の伝承地となっている。天照大神の祭祀に奉じた豊鍬入姫命は崇神天皇の皇女で、その墓所が國津神社裏のホケノ山古墳であるという伝承が地元に伝わっている。

ホケノ山古墳

ホケノ山古墳は、のちの定型化した前方後円墳の成立につながる要素を内包した初源的な古墳であり、後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纏向型前方後円墳」と呼ばれる古墳の中で、唯一全体像が判明している貴重な古墳である。

前回、石渡信一郎が土器の型式時期や古墳の築造時期、さらには藤原不比等により隠された倭の五王や初期天皇の在位年代などを突き止めるための努力を述べたが、さらに特筆したいのは、『日本書紀』の編纂段階と藤原不比等による記事の改編の解明である。石渡信一郎は『日本書紀』の編纂段階を、Ⅰ期(691〜704)、Ⅱ期(705〜711)、Ⅲ期(712〜720)に大別する。681年(天武10)天武天皇帝紀旧辞の撰修を命じたが、686年に死去した。690年に律令国家「日本国」が誕生し、691年(持統5)持統天皇が大三輪氏など18氏の纂記を上進させた。これが『日本書紀』の編纂の始まりとする。この時期にできたものを「原日本書紀」とする。その初代天皇孝霊天皇で在位年数は120年だった。Ⅱ期に藤原不比等は神武から6人の天皇を追加し、景行・成務・仲哀天皇神功皇后を創作し、仁徳・雄略・武烈の3人の仁徳王朝に履中から仁賢の7人の天皇を加え、さらに安閑・宣化の2人の天皇を入れた。Ⅲ期には神武天皇の死亡年を神武76年とし死亡年齢を127歳として孝霊天皇とほぼ同じにした。神武は基本的に後期百済倭国の初代大王応神(昆支・武)の分身であり、不比等が神武の死亡年齢を127歳にすることにより、応神が67歳で死亡した事実を非公式に記録していると石渡は考えている。不比等は前期百済倭国の初代崇神天皇の系譜を隠すために倭の五王の系譜を隠し、後期百済倭国の初代応神天皇(昆支・武)の系譜を隠すために神功皇后や数人の架空の天皇を入れ込んだりしているが、天皇の系譜に百済系王族が深く関与していることを隠したいためと思われる。考古学会でも認めている実在の最初の天皇とされる初代崇神天皇の実際の在位年代について、石渡は元年が342年、死亡年が379年と『日本書紀』が非公式に記録しているが、藤原不比等はどちらも1年繰り上げて、341〜378年にしたという。石渡は箸墓古墳の被葬者を崇神天皇とし、古墳の築造年を393年と推定している。箸墓古墳の後円部には、吉備首長霊継承儀礼に使われた特殊器台・特殊壺、最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪などが立てられた。『日本書紀』垂仁紀32年条には、人・馬などの埴輪を陵墓に立てることを決めたとある。家形埴輪・器財埴輪(きぬがさ形埴輪・盾形埴輪など)の成立は5世紀前半、動物埴輪・人物埴輪などの成立は5世紀後半と見られるが、この記事は、崇神の息子・垂仁の時代に円筒埴輪が立てられたことを記録している。箸墓古墳の周濠跡の植物堆積層(厚さ約25cm)からは多量の布留1式(410〜437年)の土器とともに、長期間使用された木製輪鎧が出土している。鮮卑後燕(384〜407)を滅ぼし、北燕を建国した馮跋の弟の馮素弗(ひょうそふつ)は415年に死んだが、その墓から発見された金銅板張りの木製鎧は、箸墓古墳出土の木製鎧に近いと山口博(トンボ塾講座)はいう。それゆえ、この木製鎧も垂仁の次の倭国王讃(イニシキイリヒコ)の時代の初期の410〜420年代に投棄されたとみられる、と石渡はいう。箸墓古墳以前の纏向古墳群の矢塚・ホケノ山・勝山古墳の築造時期は、土器が庄内3式なので370年代としている。

ホケノ山古墳復元図
ホケノ山古墳の全長は80m、後円部径約55m、前方部長約25mであり、埴輪はもたず、2段以上の段築と葺石が確認されている。口縁部中央からは「石囲い木槨」という埋葬施設が確認され、中に舟形木棺が置かれていたと推測されている。副葬品には、画文帯同向式神獣鏡の完形品と破片が1面ずつ、破片化した内行花文鏡が複数片、素環頭太刀1口を含む鉄製刀剣類、鉄製農工具、多量の銅鏃・鉄鏃、壺や鉢などが確認された。また、石囲い木槨の西側から横穴式石室と家形石棺が検出された。

ホケノ山古墳出土の副葬品
これらが後程訪れる、橿原考古学研究所附属博物館にて展示されていた、画文帯同向式神獣鏡や素環頭太刀などの副葬品である。

ホケノ山古墳の埋葬施設の復元の様子
ホケノ山古墳の前方部東斜面から埋葬施設が検出され、その場所にその様子が復元されている。

ホケノ山古墳の埋葬施設の復元の様子
墓壙の規模は全長4.2m、幅1.2m、残存する深さは30-50cmになる。墓壙内には南端に大型複合口縁壺が、中央に底部を穿孔した広口壺が共伴し、それに挟まれるように全長2.15m、幅45cm、残存する深さ15cmの組み合わせ式木棺の痕跡が確認された。木棺内部から水銀朱も検出された。

周濠状遺構
ホケノ山古墳では水をたたえるような周濠は確認されていないが、掘削された周濠状遺構が東側と北側で確認されていて、前方部に沿って外へと開いていく様子が復元されている。周濠状遺構の幅は10.5m〜17.5mで、少量の加工木と多くの土器片が出土している。
 
 
 
 

 


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