しかし、考古学会では、埼玉県稲荷山古墳の実年代が古墳の実年代の基準とされている。同古墳の礫槨から出土した鉄剣銘文には「辛亥年」「獲加多支鹵大王」などの文字が刻まれているが、通説では「辛亥年」が471年、「獲加多支鹵(わかたける)大王」が雄略天皇とされ、同古墳礫槨の実年代は「5世紀末葉〜6世紀初葉」と見られている。しかし、この通説の「辛亥年=471年説」はあくまでも多数意見で、出土したTK47型式の須恵器の年代から、「辛亥年=531年説」を提唱する研究者も散見される。登呂遺跡発掘から考古学をリードして、日本考古学協会会長を務めた大塚初重(2022.7.22逝去)、考古学研究の第一人者として長く活動した森浩一(2016.8.6逝去)と、私が敬愛する有名なこの二人の考古学者も「辛亥年=531年説」に賛同している。
さらに『百済から渡来した応神天皇』や『倭の五王の秘密』を著した在野の研究者、石渡信一郎(2017.1.8逝去)も精力的に「辛亥年=531年説」を提唱している。『蘇我王朝の正体』、『日本古代国家と天皇の起源』を著した在野の研究者、林順治も石渡の説のほとんどに同意している。考古学会の通説との違いは、「獲加多支鹵大王」を雄略天皇と解釈する通説か、欽明天皇と解釈する石渡説かだが、「辛亥年」の干支一回りの60年の誤差がある。それによって日本のほとんどの古墳の築造年代が通説では60年古くされていると思われる。両方の説を細かく比較するのは、大変な作業なので、折々、簡単に触れていきたい。
今回の私の奈良古墳巡りは、考古学会の通説と違う石渡説の正しさを肌身に感じたいとの気持ちによる。市庭古墳の築造時期は古墳時代中期前半(5世紀前半)と見られているが、これから訪れる古墳の築造年代も通説をそのまま鵜呑みにせずに見ていきたい。ほとんどの古墳が遠くから眺めるだけで、出土遺物は博物館や資料館などで目にすることになると思う。