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Channel: hantubojinusi’s diary
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奈良古墳巡り、平城京跡、佐紀盾列古墳群の東群

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平城京跡、第一次大極殿
この夏に奈良古墳巡りに出かけた。飛鳥や斑鳩、室生、吉野など奈良には大和政権初期の遺跡や奈良時代の寺院など見どころが多いが、この半世紀で何回か訪れて大方見て回ったので、今回はほとんど奈良盆地の古墳に絞って巡った。初日はまず平城京跡の北側に点在する佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群に向かった。平城京跡は長い間発掘調査され、近年は建物の復元工事が進められている。和銅3年(710)に藤原京から平城京に都が移され奈良時代が始まった。この建物は第一次大極殿である。

第一次大極殿
第一次大極殿平城京で最も重要かつ最大の建物で、正面約44m、側面約20m、地面より高さ約27m。天皇即位式や外国使節との面会などの儀式に使われた。奈良時代中頃に一時期遷都した恭仁(くに)宮に移築され、山城国国分寺金堂になった。平城京跡資料館は最終日に訪れる予定である。

佐紀盾列古墳群の東群、市庭古墳
第一次大極殿を右手に見て、東へ進んですぐ、内裏跡の前を左手に曲がって路地を進むと市庭古墳がある。佐紀盾列古墳群の東群に属し、形状は前方後円墳だが、前方部が平城宮建設の際に破壊された。復元墳丘長は253mとされ、円筒埴輪・動物埴輪が出土し、築造時期は古墳時代中期前半(5世紀前半)と見られている。実際に被葬者は不明だが、宮内庁では「楊梅陵(やまもものみささぎ)」として第51代平城(へいぜい)天皇陵に治定(じじょう)している

市庭古墳
平城天皇桓武天皇の第一皇子で、774年9月25日に誕生し824年8月5日に崩御している。在位期間は806年4月9日から809年5月18日で、在位わずか3年で皇太弟の神野親王嵯峨天皇)に譲位し、上皇となって旧都の平城京に移り住んだ。宮内庁は市庭古墳の被葬者は平安時代初期の平城天皇陵に治定しているが、考古学会では古墳時代中期前半(5世紀前半)としている。明らかに宮内庁は誤っているが、陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り現在のものを維持していく方針と宮内庁は公言している。そこで今回は宮内庁の治定する呼称は参考程度にして、考古学会の呼称を優先する。

市庭古墳

しかし、考古学会では、埼玉県稲荷山古墳の実年代が古墳の実年代の基準とされている。同古墳の礫槨から出土した鉄剣銘文には「辛亥年」「獲加多支鹵大王」などの文字が刻まれているが、通説では「辛亥年」が471年、「獲加多支鹵(わかたける)大王」が雄略天皇とされ、同古墳礫槨の実年代は「5世紀末葉〜6世紀初葉」と見られている。しかし、この通説の「辛亥年=471年説」はあくまでも多数意見で、出土したTK47型式の須恵器の年代から、「辛亥年=531年説」を提唱する研究者も散見される。登呂遺跡発掘から考古学をリードして、日本考古学協会会長を務めた大塚初重(2022.7.22逝去)、考古学研究の第一人者として長く活動した森浩一(2016.8.6逝去)と、私が敬愛する有名なこの二人の考古学者も「辛亥年=531年説」に賛同している。

さらに『百済から渡来した応神天皇』や『倭の五王の秘密』を著した在野の研究者、石渡信一郎(2017.1.8逝去)も精力的に「辛亥年=531年説」を提唱している。『蘇我王朝の正体』、『日本古代国家と天皇の起源』を著した在野の研究者、林順治も石渡の説のほとんどに同意している。考古学会の通説との違いは、「獲加多支鹵大王」を雄略天皇と解釈する通説か、欽明天皇と解釈する石渡説かだが、「辛亥年」の干支一回りの60年の誤差がある。それによって日本のほとんどの古墳の築造年代が通説では60年古くされていると思われる。両方の説を細かく比較するのは、大変な作業なので、折々、簡単に触れていきたい。

今回の私の奈良古墳巡りは、考古学会の通説と違う石渡説の正しさを肌身に感じたいとの気持ちによる。市庭古墳の築造時期は古墳時代中期前半(5世紀前半)と見られているが、これから訪れる古墳の築造年代も通説をそのまま鵜呑みにせずに見ていきたい。ほとんどの古墳が遠くから眺めるだけで、出土遺物は博物館や資料館などで目にすることになると思う。

コナべ古墳
市庭古墳の500m東にはコナベ池と呼ばれる周濠に囲まれたコナべ古墳がある。墳丘の長さは204mあり、全国でも31位の規模を有する3段築成の前方後円墳である。前方部は南を向いていて、その南西の角を見ている。実際の被葬者は不明だが、宮内庁により「小奈辺陵墓参考地」(被葬候補者:仁徳天皇皇后磐之媛命)として治定されている。コナべ古墳の東側にあるウワナベ古墳よりコナべ古墳の方が年代的にやや古いとされ、墳形は市庭古墳や誉田山古墳(応神天皇陵)と相似関係が指摘されている。

コナべ古墳の前方部
こちらは南から見た前方部。コナべ古墳前方部の西側から後円部北東にかけて、10基の陪塚が周濠に沿って整然と並んでいて、古墳時代中期の陪塚の典型例として知られる。大和第20号墳からは円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形・壺形・蓋形埴輪などの形象埴輪が出土している。

ウワナベ古墳
こちらがコナべ古墳の東側にあるウワナベ古墳。佐紀盾列古墳群の最東端に位置する巨大な3段築成の前方後円墳である。築造時期は5世紀中期とされ、被葬者は不明だが、応神天皇の娘、仁徳天皇の二番目の皇后である八田皇女の陵墓参考地と治定されている。

ウワナベ古墳
202010月、全国で初となる宮内庁・県(橿原考古学研究所)・市の同時調査が行われ、ウワナベ古墳が墳丘長270-280mと国内第12位の大きさであると判明した。第1段テラスの埴輪列から、鰭付円筒埴輪や鰭付朝顔形埴輪が多数出土した。これらは古墳時代前期(4世紀)に多く作られ、ウワナベ古墳が作られた5世紀にはほとんど作られていなかったとされる。前時代的な埴輪を墳丘や堤にまで並べている大型の古墳は全国的にもこの古墳のみで非常に特徴的といえる。

ヒシアゲ古墳拝所の入り口
こちらはヒシアゲ古墳拝所の入り口。被葬者は不明だが、宮内庁により「平城坂上陵(ならのさかのえのみささぎ)として、仁徳天皇皇后の磐之媛命の陵に治定されている。全長219mの前方後円墳で、珍しく前方部に二重濠がある。築造時期は5世紀中葉〜後半とされる。これら四つの巨大な古墳が佐紀盾列古墳群の東群を主に構成している。それらは市庭古墳、コナべ古墳、ウワナベ古墳、ヒシアゲ古墳の順で築造されたと考えられている。残念ながら、ヒシアゲ古墳拝所まで距離がありそうだったので割愛した。
 

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