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広田遺跡ミュージアム

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広田遺跡ミュージアム
昭和30年(1955)9月、台風22号の襲来により崩れた砂丘の中から、地元の長田茂氏などが人骨や貝製品を見つけ、考古学者・盛園尚孝氏に届けたことで広田遺跡は発見された。最初の発掘は国分直一・盛園尚孝・金関丈夫氏らにより19571959年にかけて行われ、90ヶ所以上の埋葬遺構から158体の人骨が出土、4万4千点を超える貝製品が出土した。その後も発掘が続けられ、国の史跡及び重要文化財に指定された。広田遺跡の手前に2015年、広田遺跡ミュージアムが建てられ、遺跡関連資料がたくさん展示されている。

広田遺跡
広田遺跡は、広田海岸の砂丘につくられた3〜7世紀にかけての集団墓地である。この墓地から107基以上の墓と170体以上の人骨が出土している。墓地は砂丘の北側と南側に分かれて見つかり、新しい上層期(古墳時代後期〜7世紀)と古い下層期(弥生時代後期後半〜古墳時代中期)の二つの時期につくられた。上層期は再埋葬、下層期は一次葬が中心で、それぞれ葬法も異なる。

北区1号墓の原寸大再現ジオラマ
北区1号墓の原寸大再現ジオラマを見ると、覆石墓と呼ばれるタイプの墓。埋葬されていたのは壮年男性で、抜歯はなく、腰椎付近に射込まれた矢尻(石鏃)が致命傷で死亡したと推定される。腕には7点のオオツタノハ腕輪を身につけ、ヤコウガイ製の貝匙が1点副葬されていた。

広田遺跡の墓のタイプ
広田遺跡の墓のタイプは、覆石墓、配石墓、石囲墓、上層石囲墓と移り変わり、貝製装身具も変化している。

広田人の顔や体の特徴
広田人の85%が上顎の左右どちらかの側切歯や犬歯を抜歯していた。この抜歯型式を持つ人々は、日本列島では広田人と同時期の種子島の人々だけである。広田人の顔の特徴は、横幅が広く、彫りが深く、比較的鼻が高い立体的なもので、縄文人に似るがサイズは小さい。広田人の成人男性の身長は154.0cm、成人女性は142.8cmと低身長である。弥生時代後半から古墳時代並行期の種子島の人々は、渡来形の弥生人とは大きく異なる特徴を持ち、縄文人や在来系の弥生人に類似するといわれるが、顔つきや体の特徴は縄文人とも異なる点が多く、広田人ほどの短頭性(絶壁頭)、低顔性、サイズの小ささ、低身長性を示す集団は日本列島のどの時代の地域集団にも認められない。広田人の装身具の文様などから、広田人は中国大陸、中でも江南地方から渡来した人々の子孫の可能性もあるが、広田人は当時の種子島の人々の体の特徴と大きく異なるわけでもなく、体質のベースは他の種子島の集団と変わらないと考えられている。広田人の起源は、今後の発掘調査で琉球列島の人骨資料が増えることにより解明されていくと期待される。

1万点以上の貝製装身具を身につけていた成人男性
この人骨は成人男性で、腕で手を組み、立膝をする、広田遺跡でもこの人骨にだけ見られる独特の姿勢で埋葬されていた。広田遺跡から出土した貝製品の約4分の1にあたる1万点以上の貝製装身具を身につけていたが、それは日本列島でも類がない。装身具の中には貝符や竜佩形貝垂飾など広田遺跡独特なものもある。広田人に特有な抜歯もないこの人骨は、両性の力を持ったシャーマン、双性の巫だと推定されている。

広田遺跡出土品の貝製品や甕形土器
広田遺跡からは貝製品のほかにも弥生時代終末の甕形土器(広田式・中津野式)なども出土している。広田遺跡出土品の中には不思議な魔除けの文様が刻まれた貝製品もある。

D-Ⅲ地区2号人骨の広田人が身につけていた貝製品
こちらはD-Ⅲ地区2号人骨の広田人が身につけていた貝製品一式。

D-Ⅰ地区5号人骨の広田人が身につけていた貝製品
こちらはD-Ⅰ地区5号人骨の広田人が身につけていた貝製品一式。腕輪にしたオオツタノハやオニニシ・ボウシュウボラなどは種子島トカラ列島イモガイヤコウガイ奄美諸島沖縄本島、ツノガイやマクラガイは種子島から奄美諸島沖縄本島と、広田遺跡から出土した貝製品の貝の採取場所は、種子島から奄美諸島沖縄本島に及んでいる。

広田遺跡
広田遺跡ミュージアムの脇の道を海に向かうとすぐに、遺跡の現場がある。遺構の白い標が立ち並ぶ手前に「広田遺跡」の大きな標識がある。この南側墓群、北側墓群を巡る自然回廊を含めて広田遺跡公園となっている。

南側墓群
南側墓群、北側墓群とも、太平洋に面した全長約100mの海岸砂丘上に立地している。この南側墓群から158体の人骨が出土している。人骨の遺構に白い標柱が立てられている。墓群は砂丘と太平洋を見晴らす一等地にあり、北には砂丘を囲むような小島が見える。

砂丘の南に見える宇宙センターの大型ロケット発射場
砂丘の南にも小島があり、その間から宇宙センターの大型ロケット発射場が見える。

遺構の標柱
遺構の標柱には、「EⅡ地区2号人骨」「熟年男性」などと場所と推定年齢、性別が書かれている。標柱の天辺には人骨の発掘状況の写真が貼られている。

北側墓群3〜9号墓
砂丘に沿って北に進むと、北側墓群3〜9号墓がある。複数の覆石墓が集まった墓群で、地表下2.5mで発見された。3号墓(3号人骨)は、地上にサンゴ石を馬蹄型に配置した覆石墓で、覆石下にはノシガイ珠、ツノガイ珠などを伴う小児(性別不明、1214歳)が埋葬されていた。墓群の北には広田川が流れている。

北側墓群1〜2号墓
広田川に面した北側墓群1〜2号墓は、平成16年に砂丘崖面が崩れて発見された。1号墓は、サンゴ石で覆った覆石墓で、上半身のみ残存し、左上腕骨部にヤコウガイ容器、右腕にオオツタノハ貝輪5個を装着した状態で発見された。腰椎付近から磨製石鏃が出土し、争いがあったと推定されている。2号墓も覆石墓で、壺型土器2点、甕型土器2点が割られて出土し、埋葬の際の祭祀に使われたと推定されている。
 
 
 
 
 

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