奈良古墳巡り、平城京跡、佐紀盾列古墳群の東群
平城京跡、第一次大極殿この夏に奈良古墳巡りに出かけた。飛鳥や斑鳩、室生、吉野など奈良には大和政権初期の遺跡や奈良時代の寺院など見どころが多いが、この半世紀で何回か訪れて大方見て回ったので、今回はほとんど奈良盆地の古墳に絞って巡った。初日はまず平城京跡の北側に点在する佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群に向かった。平城京跡は長い間発掘調査され、近年は建物の復元工事が進められている。和銅3年(710)に藤原京...
View Article佐紀盾列古墳群の西群、宝来山古墳
佐紀高塚古墳ヒシアゲ古墳から西へ向かう道は狭く、一度平城宮跡まで戻って、佐紀盾列古墳群の西群に向かう。佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵墓)、五社神古墳(神功皇后陵)と共に西群を構成し、その最も南に位置するのが佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)である。墳丘長が127mの前方後円墳で、前方部を西方向に向け、南北を主軸とする西群の他古墳とは直交する。この写真では、正面に前方部、森の奥に後円部...
View Article馬見古墳群、巣山古墳、乙女山古墳
馬見丘陵公園、古墳状高まり次に向かったのは、奈良盆地の南西部の馬見古墳群エリアにある馬見丘陵公園。馬見古墳群は、奈良盆地における佐紀盾列古墳群、箸墓古墳を含む大和柳本古墳群と並ぶ大和三大古墳群の一つで、4〜5世紀に築造されたといわれる古墳が多く、250基を超える大古墳群である。約56haと広大な馬見丘陵公園には、3つの駐車場がある。南駐車場は巨大な前方後円墳である巣山古墳の前方部に面している。古墳外...
View Article馬見丘陵公園:公園館、池上古墳
馬見丘陵公園:公園館乙女山古墳は馬見丘陵公園の中央駐車場の北東に位置するが、公園館はその駐車場のすぐ隣に建っている。巣山古墳や乙女山古墳の他にも公園内には、ナガレヤマ古墳や池上古墳など古墳がたくさん認められるが、それらの古墳の紹介も行っている。公園館内の展示公園館では古墳の説明のほかにも、勾玉・耳飾り・高杯などの副葬品、円筒埴輪や動物埴輪など埴輪の種類、古墳時代の服装として、線刻壁画にみられる衣服や...
View Article纏向古墳群、箸墓古墳
纏向古墳群、三輪山二日目は午前中に箸墓古墳のある纏向古墳群を、午後は橿原考古学研究所附属博物館と新沢千塚古墳群を巡るハードな日程である。まず奈良駅近くの宿から箸墓古墳のある桜井市箸中に向かう。あと1.5kmほどで箸中に着く。ここから箸墓古墳まで真っ直ぐであり、正面右手に見える小山が三輪山(467m)である。左手奥の山並みの裾には「山の辺の道」がある。箸墓古墳近くから三輪山を眺める箸墓古墳前から東を眺...
View Articleホケノ山古墳
國津神社箸墓古墳の東にあるホケノ山古墳に向かうとすぐに左手に村社・國津神社があった。国津神社は、古来より「地主の森」といって、天照大神の御子神五柱を祭神としている。この男神五柱、つまり、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊...
View Article纏向遺跡、纏向石塚古墳、勝山古墳、矢塚古墳
纏向遺跡ホケノ山古墳の周囲には纏向遺跡が広がる。纏向遺跡は東西約2km、南北約1.5kmの古墳時代前期の大きな集落遺跡であり、初期ヤマト政権発祥の地と考えられている。纏向遺跡の中には箸墓古墳を代表として、纏向型前方後円墳と呼ばれる石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳の6基の古式の前方後円墳があり、前方後円墳で構成された日本最古の古墳群といえる。しかし、その築造時期は3世紀に遡ると...
View Article渋谷向山古墳、行燈山古墳
渋谷向山古墳纏向遺跡の東方、龍王山から西に伸びる尾根筋の傾斜面に築造された巨大前方後円墳が渋谷向山古墳である。後円部の先端を山辺の道が通り、宮内庁により「山辺道上陵」として第12代景行天皇の陵に治定されている。渋谷向山古墳纏向古墳群の東から北にかけて展開する、この渋谷向山古墳、行燈山古墳、黒塚古墳をまとめて柳本古墳群と称する。渋谷向山古墳の墳形は前方後円形で、前方部を西に向ける。墳丘は後円部で4段築...
View Article黒塚古墳、黒塚古墳展示館
黒塚古墳行燈山古墳(崇神天皇陵治定)のすぐ西に黒塚古墳がある。奈良盆地東南部に位置する柳本古墳群に属し、台地の縁辺部に立地している。柳本古墳群では最初に築造された古墳とされ、三角縁神獣鏡が多数出土したことで知られ、国の史跡に指定されている。黒塚古墳黒塚古墳は、全長約130mの前方後円墳で、後円部径約72m、高さ約11m、前方部長さ約48m、高さ約6m、後円部3段、前方部2段で、前方部と後円部の落差が...
View Article黒塚古墳展示館2
黒塚古墳展示館、黒塚古墳の模型黒塚古墳展示館内には、黒塚古墳の模型が展示されている。縮尺1:150の模型で、芝生に覆われたような姿で、スッキリしている。古墳は宮内庁の管理外なので、発掘調査後、埋め戻されて、今では公園として整備され、自由に墳丘を歩くことができる。後円部中央には石室のあった場所の上に模型と説明板があるようだ。銅鏡の複製品この金ピカの銅鏡は、本物と同じように作られた複製品であり、自由に触...
View Article黒塚古墳展示館3
黒塚古墳の三角縁神獣鏡三角縁神獣鏡は日本各地から出土し、その数は500以上とも550以上ともいわれている。古墳時代の銅鏡では最も数の多い鏡式で、その大半は近畿地方から出土している。出土した古墳の築造時期は、前期初頭が圧倒的に多く、次に前期前葉、前期中葉、前期後葉と、ほとんどが古墳時代前期とされている。黒塚古墳からは三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面の合計34面の銅鏡が出土した。三角縁神獣鏡の出土数...
View Article橿原考古学研究所附属博物館1、旧石器時代から縄文時代へ
橿原考古学研究所附属博物館、石像の流水施設奈良県立橿原考古学研究所は、公的な埋蔵文化財研究機関としては日本最古の考古学研究所である。橿原考古学研究所附属博物館は1938年以降の発掘調査の出土資料を中心に展示を行っている。常設展「大和考古学」は、先史時代から古墳時代を経て室町時代までの歴史をわかりやすく紹介している。だが、やはり古墳時代の出土物が中心を占めている。入り口には大きな石造物などが目立つ。こ...
View Article橿原考古学研究所附属博物館2、縄文時代の土器や墓
土器の発生氷河期が終わり、環日本海地域の細石刃・尖頭器文化が新たに石鏃を作り始める頃、列島に土器が発生する。青森県大平山元遺跡から出土した土器が、世界最古の土器といわれる。石器を主な道具としていた旧石器時代は終わりを告げ、約1万5千年前に縄文時代が始まった。縄文時代草創期の最古の土器は無文で、その後、隆起線文土器、爪形文土器と変遷し、約1万年前に縄目の模様がついた多縄文土器が登場する。縄文時代草創期...
View Article橿原考古学研究所附属博物館3、縄文時代の道具、土偶
縄文時代晩期の橿原遺跡から出土した動物の骨など縄文時代後期(約4,000年前)より以前の遺跡は、奈良県下では山間部に集中している。木津川水系の各河川がつくる谷や、吉野川水系の谷に広がった縄文遺跡は、安定した食用植物と動物・魚類によって、豊かな生活が保障されていた。同じ頃の奈良盆地は、沼沢地から乾燥した平野へと変化しているところだった。居住に不向きな盆地中央を避け、縁辺部の扇状地に遺跡が散在している。...
View Article橿原考古学研究所附属博物館4、縄文時代から弥生時代へ
縄文晩期から弥生前期への遺跡の移り変わり耕地を開き水利を管理する水稲農耕は、縄文時代晩期後半に列島西部の沿岸地域に到来した。しばらくの定着期間の後に、本州北端にまで広がっていく。奈良盆地での弥生時代の始まりは、縄文ムラの生活圏のはずれに移住してきた弥生ムラが、縄文人との交流の中で、縄文ムラを弥生ムラに変化させながら進んでいった。その様子が、縄文晩期から弥生前期への遺跡の移り変わりを見るとわかる。弥生...
View Article橿原考古学研究所附属博物館5、銅鐸など金属器や絵画土器
銅鐸の変遷銅鐸とは、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀までの約400年間にわたって製作、使用された。語源である「鐸」は、古代中国で用いられた柄付きの青銅器の楽器である。柄を持ちもう一方の手に持った打器で鐸を打ち鳴らして音を出す。それに対して吊るして使用される楽器は「鐘」と呼ばれる。日本では実際には鐘のように吊るして使用された。これまでに出土した銅鐸は、全国で約500個で...
View Article橿原考古学研究所附属博物館6、初期ヤマト王権の成立
初期ヤマト王権の成立3世紀半ばを過ぎた頃、奈良盆地の東南部に巨大な前方後円墳が築かれる。これまで何度も述べてきたように、それが最初の大王墓・箸墓古墳である。その造営に直接関わった纏向遺跡内では、石塚古墳やホケノ山古墳などが箸墓古墳に先行して築かれていた。この纏向遺跡が初期ヤマト王権の中心地と考えられている。箸墓古墳のような初期の大型前方後円墳は、近畿のほか瀬戸内(吉備)から北九州にかけて広く分布して...
View Article橿原考古学研究所附属博物館7、縄文時代から古墳時代へ
縄文時代の観音寺本馬遺跡ここでは主に橿原市周辺の遺跡や古墳を見ながら、あらためて縄文時代から古墳時代への移り変わりを取り上げる。橿原市南西部に位置する観音寺本馬遺跡から、約3千年前のムラの住居や墓地、人工的なクリ林、木の実のアク抜き場などが見つかり、縄文時代の食生活の様子が明らかになった。弥生時代の環濠集落弥生時代のムラは、住居や倉庫を濠や柵で囲み、その外側に水田や墓地(方形周溝墓、土坑墓)を設ける...
View Article橿原考古学研究所附属博物館8、倭の五王の時代
「倭の五王の時代」5世紀代は、日本列島の5人の王が中国に遣いを送ったと中国の歴史書に記された「倭の五王の時代」である。彼らは特に朝鮮半島の情勢に強い関心を向けていた。同じ時期に大王墓が奈良盆地から大阪平野へ移動し、古墳が最も巨大化する。特に百舌鳥古墳群は、大阪湾からの眺めを意識した場所が選ばれ、国際化の時代に適応していた。また、渡来系集団を積極的に活用し、鉄器生産、馬飼などの各種生産が交流した時代で...
View Article橿原考古学研究所附属博物館10、動物埴輪・馬具の変遷
四条古墳橿原市四条町にある四条遺跡では、集落の縁辺部に位置すると考えられる幅5〜7mの大溝が見つかった。大溝からは多量の木製品や土器が出土した。四条古墳は、畝傍山の北東にある、5世紀後半の全長38mの造出し付き方墳である。墳丘はすでに削られていたが、周濠の中に倒れ込んだ状態で、各種の人物・動物埴輪と多数の木製品が残っていた。埴輪のように立てた鳥と笠・盾形のほか、手に持つさしば・刀・弓などを模したもの...
View Article橿原考古学研究所附属博物館11、藤ノ木古墳、最近の調査で分かった遺跡や古墳群
藤ノ木古墳、金銅製の馬具藤ノ木古墳は、法隆寺の西にある、径約48mの大型円墳である。6世紀後半の横穴式石室内に、朱塗りの家形石棺があり、棺内に2人の男性が葬られていた。石棺の裏には、金銅製馬具など3組の馬具と挂甲があり、棺内には金属とガラスの玉の装身具と、玉纏大刀などの飾り大刀と剣、冠・履(くつ)・大帯・筒形品などの金銅製品が納められていた。藤ノ木古墳の馬具の中では、龍・鳳凰・鬼神・象・パルメット(...
View Article橿原考古学研究所附属博物館12、飛鳥宮跡、平城宮跡、藤原京跡
飛鳥宮周辺の遺跡推古天皇が592年に豊浦宮で即位してから平城遷都までの約120年間、多くの宮が置かれ、長い間、都となったのが飛鳥であり、この時期を飛鳥時代という。飛鳥寺の南で飛鳥川と東の丘陵に挟まれた狭い盆地には、舒明・皇極・斉明・天武・持統の歴代の宮が営まれた。飛鳥の諸宮は、大化の改新の端緒となった乙巳の変や古代最大の内乱といわれる壬申の乱の舞台ともなり、律令国家の基礎を築き上げた場所であった。飛...
View Article橿原考古学研究所附属博物館13、古代遺跡・遺物から見る仏教の受容と広まり
列島各地と都との交流藤原京、平城京が成立すると、列島各地と都との交流はにわかに活発となった。東北地方の土師器、甲斐国の土師器、尾張国の製塩土器・須恵器など各地から都へ様々な品物が送られてきた。例えば、最下段の左から2番目の飛鳥京跡出土の荷札の木簡には、「三形評 三形五十戸生マチ知...
View Article鳥屋ミサンザイ古墳(宣化天皇陵)、黒塚古墳展示館の補足
鳥屋ミサンザイ古墳(宣化天皇陵)この鳥屋ミサンザイ古墳は、橿原市鳥屋町に所在する、墳丘長138mの前方後円墳である。実際の被葬者は明らかではないが、宮内庁により宣化天皇の身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)に治定されている。この御陵には、先立った皇后の橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)と孺子(じゅし)といわれる宮中に仕えた童も合葬されたといわれている。鳥屋ミサンザイ古墳(宣化天皇陵)宣...
View Article高松塚古墳壁画館
高松塚古墳壁画館高松塚古墳は、明日香村の西南部の丘陵地にあって、牽牛子塚古墳、キトラ古墳、中尾山古墳など終末期古墳が集中している中の古墳で、文武天皇陵の北約200mにある。7世紀末から8世紀初めに作られた古墳時代終末期を代表する古墳である。中世に盗掘に遭い、墳丘も開墾などで削られて小型化していたが、発掘調査により円形で、上段の直径が17.7m、下段の直径が23mの2段に造られ、墳丘の裾には溝が巡らさ...
View Article高松塚古墳壁画館、高松塚復元古墳
高松塚古墳壁画館の石槨復元模型壁画館を見学する前に、「高松塚古墳壁画国宝指定50周年」の「修理作業室の公開」が行われていたので、事前申し込みにて修理中の壁画の現物をガラス窓越しに見学できたが、作業中でもありよく確認できなかった。この壁画館の石槨復元模型の方が臨場感があり迫力がある。この石槨(石室)は、横口式石槨の系統に入り、平らな底石の上に板石を組み合わせて造っている。横口式石槨の系統には、鬼の俎板...
View Articleキトラ古墳、キトラ壁画体験館
キトラ古墳キトラ古墳は明日香村南西部、阿部山の南斜面に築かれた古墳で、高松塚古墳の約1km南にある。キトラ古墳キトラ古墳は、檜隈寺跡とともに国営飛鳥歴史公園のキトラ古墳周辺地区に含まれ、墳丘にある石室内に壁画が発見され、国の特別史跡に指定されている。キトラ(亀虎)の由来は、入り口から内部を観察すると亀と虎の壁が見えることから、古墳の南側の小字「北浦」が訛った、古墳が阿部山集落の北西方向にあって四神で...
View Article高松塚古墳とキトラ古墳の比較
高松塚古墳とキトラ古墳の比較先ほどの高松塚古墳壁画館に、高松塚古墳とキトラ古墳の比較表があったので、ここでよく見てみよう。墳丘・石室の構造はほぼ同じで、規模はキトラ古墳の方が少し小さい。築造時期は7世紀末から8世紀初めの飛鳥時代末頃で、兄弟古墳といわれるがキトラ古墳の方が先だという。違いを探すと、石槨内壁画ではキトラは十二支像、高松塚は人物群像、天井図ではキトラは天文図、高松塚は星宿図である。副葬品...
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