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馬見古墳群、巣山古墳、乙女山古墳

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馬見丘陵公園、古墳状高まり
次に向かったのは、奈良盆地の南西部の馬見古墳群エリアにある馬見丘陵公園。馬見古墳群は、奈良盆地における佐紀盾列古墳群、箸墓古墳を含む大和柳本古墳群と並ぶ大和三大古墳群の一つで、4〜5世紀に築造されたといわれる古墳が多く、250基を超える大古墳群である。約56haと広大な馬見丘陵公園には、3つの駐車場がある。南駐車場は巨大な前方後円墳である巣山古墳の前方部に面している。古墳外堤のすぐ北に古墳状高まりがあり、発掘調査で円筒埴輪列と円筒棺、船形埴輪の破片が出土した。

馬見丘陵公園、古墳状高まり
巣山古墳は、馬見古墳群の中央群中でも中心的な、墳丘長は204m(推定復元220mで国内23位)と巨大な前方後円墳である。周濠は楯形で幅は後円部側で33m、前方部側で37m。周濠の外堤は最大幅が27mである。この古墳状高まりで発掘された円筒埴輪を復元して、元の位置に並べている。

古墳状高まり、出土埴輪など
埴輪は古墳時代中期初め(4世紀末)に作られたとされ、巣山古墳の築造とほぼ同時期と考えられている。船形埴輪は、外面に直弧文という文様が施された珍しいものである。円筒棺が出土したことから、古墳時代には埋葬場所とされていたと考えられている。

円筒棺が出土した位置
地面に石を並べて円筒棺が出土した位置を示している。土管のような筒状の棺身の両端には、笠状の蓋が付けられ、棺身には12本、蓋には数本の帯状の突帯と呼ばれる粘土紐が貼り付けられていた。棺身の長さは1.5m、最大径は55cmだった。円筒棺の内部には、鉄剣、鉄鏃、鉄鎌、鉄斧が副葬品として納められていた。円筒棺に副葬品を伴う事例は少なく、被葬者が有力者だったと考えられている。

巣山古墳の復元ジオラマ
馬見丘陵公園の公園館に巣山古墳の復元ジオラマが展示されている。巣山古墳の墳丘長は推定復元220mで、墳丘は封土を3段に築成しており、斜面に礫石や割石が葺かれている。前方部と後円部の両方のくびれ部に方形の造り出しが付設されている。後円部に2か所、前方部に1か所の竪穴式石室がある。明治時代、後円部の石室から長さ9.5cmの大勾玉や管玉と車輪石、石釧、鍬形石などの腕輪類、刀子や斧などの祭祀用の石製品が出土している。

巣山古墳から出土した形象埴輪
これらが後ほど訪れる橿原考古学研究所附属博物館に展示されている、巣山古墳の盗掘埋土内から出土した円筒埴輪、家形・甲冑形・蓋形・盾形・船形・靫形などの形象埴輪である。

クフ王墓のピラミッド、大仙古墳などと大きさを比較する模型
初期の古墳は直径1920mの円墳や方墳だったが、その後、前方後円墳前方後方墳など50100mの古墳が現れ、4世紀前半には箸墓古墳のような全長272mの大きな古墳が作られ、5世紀頃には全長486m日本最大の大仙古墳という巨大古墳が造られた。後期にも全長310mの見瀬丸山古墳もあるが、全体に小形になり円墳や方墳が主体となる。巣山古墳は全長220mだが、全長70mのボーイング747機や、底辺230mでクフ王の墓とされるピラミッド、日本最大の大仙古墳(伝仁徳陵)と大きさを比較する模型も公園館に展示されていた。

馬見古墳群の盟主、巣山古墳

巣山古墳は馬見古墳群の盟主となる巨大古墳で、古墳時代中期初頭の王墓と考えられている。国の特別史跡に指定され、2000年度から発掘調査が継続されている。前方部北西隅では墳丘完成時の祭祀に関わる木製鋤、周濠北西隅では結界として外堤に立てられた可能性のある靫形木製品が出土した。前方部西側から周濠内に張り出す島状遺構が見つかり注目された。島状遺構の各辺斜面には葺石が施され、頂上には白礫が敷かれ、形象埴輪の蓋形7点、家形7点、盾形3点、囲形4点、柵形10点以上が配置されていた。さらに二方向の隅角に半島状の突出部、その間に州浜状の石敷き、そして墳丘側には通路が設けられ、半島状の突出部には水鳥形埴輪が3点設置されていた。水鳥形埴輪を据えた島状遺構は、古市古墳群最初の巨大古墳である津堂城山古墳でも検出されていて、この段階の最上位の古墳において新たに開始された埴輪祭祀と見られている。

また、兵庫県立考古博物館名誉館長である和田清吾の『古墳と埴輪』によると、2005年には、巣山古墳の周濠の底から直弧文を浮き彫りし赤色顔料を塗布した実物大の準構造船(木造)の部材が発掘され、船形埴輪だけでなく、現実の葬列でも特別に飾られた船が死者の遺体を運ぶ乗り物として利用されたことが明らかになった。『古事記』に記された「喪船」と推測され、『隋書』倭国伝の「葬に及んで(棺ではなく)屍を船上に置き」との記事にも照応し、「持ち運ぶ棺」出現以前の、いかにも古墳時代的な遺体の運び方として注目されている。円筒埴輪に描かれた船の絵や船形埴輪に加え、実物の船の部材が発見され、葬送儀礼の実態が明らかになってきた。古墳時代前期に前方後円墳とともに出現した「天鳥船信仰」ともいわれる葬送儀礼も、古墳時代後期の前方後円墳の消滅とともに姿を消していったという。

菖蒲園の向こうに乙女山古墳
公園館の裏を北に向かうと欅の広場と古墳の丘の間に菖蒲園が見える。その向こうに乙女山古墳が横たわっているが、判然としない。

女山古墳
右手の古墳の丘に上ると、ようやく乙女山古墳の姿が確認された。乙女山古墳は大型の帆立貝式古墳で、全長約130m、後円部径104m、高さ14.7m、前方部長さ30m、幅52m、高さ3.5m。後円部西側に長さ11m、幅23mの造り出しが付設されている。周濠は前方部を広く、後円部を狭くしていたが、現在は古墳の南側に大きな下池が広がっていてかつての周濠は確認できない。

女山古墳の後円部
女山古墳の後円部は3段築成で、1・2段は低く緩やか、3段目は急斜面となり、椀を伏せた形をなす。葺石は各段斜面に施されている。後円部の埋葬施設は明らかではないが、粘土槨と推測されている。刀子、勾玉、臼玉など滑石製品が出土している。造り出し部では、2段目の葺石の外側に礫が敷かれ、円筒埴輪列、家形埴輪2、楕円形円筒埴輪2が出土した。墳形、出土物から5世紀前半の築成と推定されている。

女山古墳
公園館の説明によると、乙女山古墳は日本最大の帆立貝式古墳として有名で、国の史跡に指定されている。造り出し部の方形埴輪列内の円筒埴輪から、内部に小型丸底壺が落し蓋となる円盤状土製品とセットになって7点検出されている。
 
 

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