巣山古墳は馬見古墳群の盟主となる巨大古墳で、古墳時代中期初頭の王墓と考えられている。国の特別史跡に指定され、2000年度から発掘調査が継続されている。前方部北西隅では墳丘完成時の祭祀に関わる木製鋤、周濠北西隅では結界として外堤に立てられた可能性のある靫形木製品が出土した。前方部西側から周濠内に張り出す島状遺構が見つかり注目された。島状遺構の各辺斜面には葺石が施され、頂上には白礫が敷かれ、形象埴輪の蓋形7点、家形7点、盾形3点、囲形4点、柵形10点以上が配置されていた。さらに二方向の隅角に半島状の突出部、その間に州浜状の石敷き、そして墳丘側には通路が設けられ、半島状の突出部には水鳥形埴輪が3点設置されていた。水鳥形埴輪を据えた島状遺構は、古市古墳群最初の巨大古墳である津堂城山古墳でも検出されていて、この段階の最上位の古墳において新たに開始された埴輪祭祀と見られている。
また、兵庫県立考古博物館名誉館長である和田清吾の『古墳と埴輪』によると、2005年には、巣山古墳の周濠の底から直弧文を浮き彫りし赤色顔料を塗布した実物大の準構造船(木造)の部材が発掘され、船形埴輪だけでなく、現実の葬列でも特別に飾られた船が死者の遺体を運ぶ乗り物として利用されたことが明らかになった。『古事記』に記された「喪船」と推測され、『隋書』倭国伝の「葬に及んで(棺ではなく)屍を船上に置き」との記事にも照応し、「持ち運ぶ棺」出現以前の、いかにも古墳時代的な遺体の運び方として注目されている。円筒埴輪に描かれた船の絵や船形埴輪に加え、実物の船の部材が発見され、葬送儀礼の実態が明らかになってきた。古墳時代前期に前方後円墳とともに出現した「天鳥船信仰」ともいわれる葬送儀礼も、古墳時代後期の前方後円墳の消滅とともに姿を消していったという。